可哀そうな人
- fcsakai2
- Aug 8
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この間見たドラマで、夫の消息がわからない女性と、

妻を事故で亡くした男性が会話をしていた。女性は、職場で同僚から同情され「みんな可哀そうって心配してます。無理しないでください。」と言われた。男性は部下に仕事のミスを指摘すると「私はペットのハムスターが亡くなったとき辛くて仕事のミスが多くなった。」と言って、普通に仕事ができていることの方がおかしいとまで言われた。二人の会話の中で、女性はつぶやく。「私たちいつまで可哀そうな人でいなければならないのかしら」
多分、同僚の方は善意で女性に言葉をかけたのだと思う。でも善意だったら何を言ってもいいのか。「可哀そう」と言う言葉は、自分は別の世界にいて上から見て言う言葉のように思える。それは言葉をかけた相手に伝わり、ちょっと傷つけている。善意でかけた言葉であることは分かるので、返す言葉はなく、不本意ながら「ありがとう」を言わされて、またちょっと傷つく。なんでこんな風に傷つくのだろう。それは、言葉をかけた相手が持っている、「夫の消息が分からない人は可哀そう」という「可哀そうな人」の枠をかぶせられたからだ。男性は「妻を亡くした人は悲しみで、仕事も手につかないのが当たり前」という枠をかぶせられたのだ。

そうやって、人は知らず知らず自分の持っている枠を誰かにかぶせてしまう。それは、決めつけであり、アンコンシャスバイアスである。それが善意で行われるとなかなか気づかないし、外すことが難しい。でも心がちょっとざわっとして、モヤモヤが残る。枠をかぶせられた時に気づかなくても、心のざわつきやモヤモヤに気づいたら、「ああ、自分は相手の持っている枠をかぶせられたんだな」と思って、自分で枠を外そう。そうやって自分の価値観や気持ちを大切にしていきたい。
私はドラマが好きでよく見るのだけど、そこに描かれるものは、おそらく製作者の、たいていは脚本家の価値観だったり、訴えたいことだ。その価値観が自分の持っているものに近いと引き込まれていく。特に私はセリフが心に残る。自分がいつも思っていることをこんなセリフで表現してくれていると感動を覚えて、よく人に伝えるときに使わせてもらう。今回の「私たち、いつまで可哀そうな人でいないとならないのかしら」というセリフは素敵で、使わせてもらった次第だ。
(Ta)




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